2010年12月25日土曜日

観劇日記『黴菌』

迷った挙句、オークションでチケットを落として観に行ってきた。

久々の観劇。ま、面白かったです。
素材(役者さんたちやスタッフさんの力量)はいいし、料理人の(KERAさん)の腕もいいので
おもしろい作品だったと思います。ただ、ちょっとコストパフォーマンスは悪いかなぁ・・・
ちょっと高い感じはしました。

初めてKERAさんのお芝居を観たのですが、彼の力量の大きさは感じました。
僕、こんな種類の手品が出来て、こんなのも出来るんだけど、今回はこんな感じにしてみたけど
どうよ?と言われて、はぁ、と見ている感じ。
理系的にいうと、すごいっぽい研究を見せられて、理解は出来ないんだけど、すごそうなのは分かって
でも作っている人は不満な点もある感じで、それは自分の力が足りなくてうまく咀嚼できない気分です。
すごい力のある方なのですが、それはあくまで過程であり、それは彼の傑作ではなく、必ず狙える技を
かけて、喜ばせてもらっている気分なのです。

もちろん、色々な楽しみ方が出来て、エンターテインメントとして、笑い涙を求めてみることも
出来るし、ホームドラマじゃん、ってみることもできるけど、今回彼は何を言いたかったのだろうかとしばし考えてみることにします。

とりあえず、舞台の設定が昭和である必然性はあまり無い感じです。想像の上で作られている
という点を除いても、戦争経験者が書くような、そこから湧き上がるエネルギーのようなものは
感じられませんでした。昭和って言っちゃったし、3部作だし、まずは、それで制限を設けて書いてみよう
という書き始めを感じます。最後のセリフはちょっと苦しかったです・・・
そして、ところどころ、整合性が損なわれない程度に、昭和は取り込まれてはいますが、家の外の様子と照らし合わせると、やや、不自然な点は残るとは思います。

メッセージ性について
非常に巧みに脚本を書いているので、メッセージ性は包含され、暗喩されている向きも大きいと感じました。取り繕う男、自然な気持ちを隠し持つ、本当に思っていることは非常にいいにくい。大事なモノは意外とそばにある。全部作り事だったらいいのに。黴菌の存在は内部には限らない。状況によっても黴菌が悪かどうかさえ変わる。何が本当に正しいのだろうか、そういったことが暗には含まれていたように思う。

役者について

質の高い役者がそろっていて、さすがだな、と思いました。

北村一輝はいい俳優だということは
分かった。顔濃い、声が舞台の役者としてはやや汚め、動きは問題ない。色気はすごい。
ただ彼はやや映像向きであろう。

印象的だったのは仲村トオル、彼の演技を見るために、彼には何かが足りないということを
いつも感じることがあり、それが何かいつも気になるのですが、根本的に負の局面に心が陥りきることが
無いことが1つ足りないことなのかもしれないと思いました。
今回の芝居をみて、KERAさんはあて役で書く人で、その人のことをよく見ているし、その人の
魅力をひきだすことがうまい方だなとは感じたのですが、仲村トオルの不自然且つ魅力的な信念のような
ものを上手く引き出していたと思います。彼はすごそうに見せるのがうまい役者なのかもと失礼ながら思う。

緒川たまきはきれいでした。衣装さんのセンスも良かったですね~ビビッドな色をきれいに
着こなせる女優さんというのはやはり華のある存在なんだな、と思いました。
また、彼女の魅力を引き出すすべをやっぱり、彼はよくご存知のようです。

ともさかさんは親和力が高い役者さんということを感じました。
自分という核を柔軟に芝居に適用させることが出来る人、という意味です。

高橋惠子さんは美しかったです。憂いのある動きと声、プロでした。
女の心の機微みたいなものを巧みに表現されていたと思います。

生瀬さんはいい声だった。登場から光が見えたし、彼の機転の早さと自由度の大きさには圧倒されるものがある。東京の言葉と関西の言葉と、実にバイリンガルだったw

山崎さんの動きと雰囲気はステキでした。あのラジオの長台詞、役者だ!と思いました。他の役者さんたちもそうなのですが、非常に情景を浮かび上がらせられるほどの表現力をお持ちなのです。

岡田さんは初めて拝見しましたが、魅力的な役者さんですね。取り上げられて評価されるところを見る
機会が多かったのですが、納得しました。自然にひたむきに役に向き合い、理性とのバランスも取れている
珍しい役者さんだと思います。

犬山さんやみのすけさんは、この劇の安定剤としてうまくポイントを押さえていたと思います。
ちゃんと演出家のことを長い期間付き合って理解している人がいるというのは、劇を作る上で
大事なことですよね。

池谷さんが可愛らしく、かつ、ちょっとパターン芝居になっているのは、やや致し方なかったのかなぁという気もします。

小松さんのことは、ん~、あまりちゃんと注目してなかった。。。

長谷川博己はブレイク必至だと思います、今日の公演の調子は良くなかったですが、しかし、
正統派で骨太な演技が出来る人だと感じました。30代ってやや遅咲きのイケメン実力派役者が輝く
時期ですよね。

ふーたくさん書きましたが、おもしろくはありました。
映像は、非常に良かったです。また、低音の使い方が印象的な音も素晴らしかった。
照明のことはよく分からないので、誰か書いてくださいw

さて、良いクリスマスイブになりました。
誰か、私と芝居を見に行き、終わったあとに居酒屋でトークしようぜ。

2010年12月19日日曜日

R小技

既に書いたグラフに例えばx=1の直線を入れる方法

abline(1,0)

abline(b,a)
y=ax+b

と対応しているらしい。
参考URL
http://www.okada.jp.org/RWiki/?%A5%B0%A5%E9%A5%D5%A5%A3%A5%C3%A5%AF%A5%B9%BB%B2%B9%CD%BC%C2%CE%E3%BD%B8%A1%A7%CB%DE%CE%E3

画面の分割

#画面分割
par(mfrow=c(2,2))

四捨五入(ちょっと厳密には違う丸め方)
row(x)
切り捨て
floor(x)

2010年12月13日月曜日

勝手に美人論

"常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う"
"Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. "
~アインシュタイン~

最近この名言はよく出来ていると思う。
私は美人、イケメン、アンチエイジングというものに対してアンチテーゼを示したい。
それは、どんなにインテリな人間でも、イケメンに弱かったりする現実に対してのアンチテーゼでもあり、
自分に対しての戒めでもある。つまり、私はイケメンがすきだからだ。

美しいという言葉は色々な意味を包括した言葉である。
人を形容するときも、自然を形容するときも、現象を形容するときも使える便利な言葉だ。
数学者だったら美しい数式というように使ったりもする。所詮言葉は感情を入れる入れ物に過ぎず、
その大きさは人によっても異なる、と感じる。

美しいというのは、個々の観点から美しいと感じる物であり、それらは偏見のかたまりだと思うのだ。
ただ、美人やイケメン(ハンサム)<←面倒なので以下美人にまとめる>といったものは、多くの人に共有される偏見ゆえ、一般的にそうである、と思い込んでいるに過ぎないとだと思う。それがあたかも常識のようにふるまっている。だから、時代や国によって、美人の定義などころころと変わり、昔の美人の写真や絵をみてこれのどこが美人?と思ったりするのである。

ともかく、美人など偏見の作り出したコレクションに過ぎず、そのコレクションの中に自分が当てはまらないからといって、別段落ち込むことは無いのである。その美人という偏見のコレクションに踊らされて、そのコレクションの中に入ろうと整形や、エステに、何十万、何百万もかけるというのはナンセンスであると私は思う。

しかしながら、経験上、美人は得をする。私の姉はずっと美人で、彼女は美人であるからにして、得をしていたところが多分にあった。私は中途半端に整っている程度なので姉と共にいつか美人と言われる日が来ることを願っていた。私は高校を卒業して、少し痩せて、多少の化粧をして、その一般的な美人の範疇に多少なりとも入ったら、周りの扱いが変わったというのは間違いなく事実である。人の反応が違うのである。美人は便利で得なのは間違いない。これは両親に感謝すべきことなのかもしれないと思ったりもする。

今度は、スタイルについて考えてみよう。私は御世辞にもスタイルは良くない。
上半身と下半身のバランスが悪く、色々なところに肉がついていて、最近の美しい肉体とは程とおい。
最近は、細く長くメリハリがある身体というのが”スタイルが良い”ということの定義になっているように
思う。ただ、これも偏見のコレクションだ。しかもあまり実用的ですら無い。
それでも、私はこのコレクションに踊らされて、もっと美しい肉体に一度はなってみたいと思ってしまうのである。

お年寄りと話していて思ったことは、彼らはあまり、美人やイケメンを気にしていなくて、それよりも健康やその人の状況、良い顔かどうかを気にされていたりする。
見た目を重視できる年齢というのは、元気なときだけかもしれない。

結局、何が重要なのか、ということを考えると、自分が生きて行く上で、相手に良い印象を与えたいから
見た目というのは重視されるのである。その見た目が良い、の定義が偏見のコレクションになっていて、しかもメディアの発達でそのコレクションが偏っているものを当たり前に信じているということが問題なのである。しかもそれは、ある種の権力を持つ人によっても操作出来てしまうということが怖いことなのである。

人にとって重要なことは、おそらく、長く人が生き続けることであろうと思う。そのためには人の存続に優位な人の子孫を作っていくことだと思う。愛の定義はまた、色々あってそこでも議論が進んでしまいそうだけど(同性愛も愛だし)、とりあえず、その子孫を残すためには、自分の好みにあう人を基本的には1人
(以上?)見つけて2人以上の子どもを産むことなのだろう。要は、自分にとっての美人やイケメンを探せばいいだけなのだ。そのために、そのコレクションに入ることが必要だと思ったら、そのための努力をすればいいし、必要ないと思ったら、他の努力をすれば良いと思うのだ。

また、スタイルにおいても、健康につながる実用的なスタイルであることが大事だと思う。太り過ぎでも痩せ過ぎでもそのコレクションに入らないことはある種健全なことで、そのコレクションが健康なスタイルと重複することが人の存続にとっても良いことだと思う。
しかし、長生きすることが人という種の存続にとって良いことかどうかはまた、別の問題かもしれない。

今日は勝手に美人論を展開してみました。

2010年12月6日月曜日

高校生に伝えたいこと スライド資料φ(..)メモメモ

頭の中のごたごたを。

結局伝えたい事は、高校時代に全力を尽くせ、辛いけど。
失敗しても、間に合わないと分かっていても、そこで全力を尽くせるかどうかで決まる。
2年のこの時期ラストチャンス。
先を見据えて生きること。
進路は柔軟に。

もし悩んでいることがあったり、見学したかったら、気軽に言ってちょ。
実際に大学を見学しに行って、確かめてみるのもいいかも。大学はとっても自由なところで潜り込んで
授業をうけることもしやすいよ~

自分の糖鎖の研究はおもしろい。
アイデアがたくさん浮かぶ。
研究は何もかもがヒントになる可能性がある。
そして、巨人の肩に乗るようなもの。
世界を変える可能性をも秘めている。

時間があれば、セントラルドグマについて。