2015年6月21日日曜日

観劇 -- ゆうちゃんの年(立ツ鳥会議)


良い劇だった。
色々な要素がある劇だったのだけど,
個人的には,一般的な世の中にある弱き者とされている人達の内面の葛藤と
それを取り巻く環境,人たちとの関わりが,深いくせに "軽妙なタッチ” で描かれていた点にこの劇の特質があると思う。
ストーリーとしては,ある事件をきっかけにして,その事件で亡くなった人の名がゆうちゃんであることから,
その年(年度)の子どものほとんどがゆうちゃんと名付けられるというフィクションであり,
そのゆうちゃんはゆうちゃん同士では共有ができる点が多いのだが,外にでると
ひどく社会性が低くて,うまく環境に適応できなかったり,会話ができなかったりする。
最初はそのゆうちゃんと他者との会話が成り立たないということが,まるでコメディのようにかかれていて,
観客はそれに引き込まれてしまう,笑ってしまう。そう,この時観客はあくまでゆうちゃんじゃ無い側にいる。

ゆうちゃんはゆうちゃんのコミュニティの中では,相手が好きなモノは自分の好きなモノでもあり,
無条件に共有できる仲間,まるで同期をしているような仲間なのだ。そこにいる時には楽しく落ち着いて
くつろげる。

ゆうちゃんの年には1人ゆうちゃんではない子,あいちゃんがいて,それは,そのある事件の結果であるのだが,
ゆうちゃんはそのゆうちゃんではない子,あいちゃんのことを仕事の関わりがあっても,なかなか思い出せない。
事件で亡くなったゆうちゃんの年(年齢)にその時生まれたゆうちゃんたちがなった時に,その同期のような共有の魔法は
解けて,それぞれのゆうちゃんが,それぞれの人間になっていく。それに付随する違和感と葛藤にもがき苦しみながら
ゆうちゃんは,個としての人間になっていく。この過程において,観客はいつの間にか(もちろん私の主観ではあるけれど)
ゆうちゃん側に立っている。そう,これは多かれ少なかれ,皆ゆうちゃんの部分があるということ,自分のいるコミュニティ
の中では,自分の好き嫌い,前提条件を,常識として当然のものとして自分の中に取り入れてしまう。
アインシュタインは,「常識とは,18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」と言った。
あなたにとって,私にとって当たり前のことは,好きなことは,本当に,本当に,あなたにとって,私にとって
当たり前だろうか?好きなことであろうか?

ゆうちゃんの魔法が解けた時に,お酒に弱いゆうちゃんは,お酒に強くて楽しめるゆうちゃんに合わせていただけであり
ひどい二日酔いになる(ゆうちゃん同期は体質まで変えてしまう!)その二日酔いの状況で朝をグデグデと迎えながら
これからどうしようと思いを馳せ,しかし,そこでゆうちゃんがいう,「分かった!かもしれない…信じるということかな?」
という言葉がすごく良かった。自分の感情やら信念やらというのは,実は信じるしかないことなのかもしれない。

そして,ゆうちゃんはあいちゃんを思い出す,が,それはあいちゃんとの別れともなる。(あいちゃんがやってはいけないことを
職場でやったから出ざるを得なかったのだけど,なぜ別れになったのかということが私にはまだわかっていない。後から分かった。You と I のロジックだ。)
ゆうちゃんは魔法が解けて,清々しく他者との関係を見つめられるようにもなり,救いのあるシーンで劇は終わる。

ここで書いたのは一部のテーマだけで,他にも子供の名前についてゆうちゃんたちが考えるシーンや男性のゆうちゃんが(劇中にゆうちゃんは3人いる)
結婚に悩んだり,弟との関係について考えたり,ゆうちゃんの契約先であいちゃんが働いている役所の上司の仕事に対する
気持ちの向け方とか取り組みとか(さすが社会人になっただけあって地に足の着いた発言をしよる,そして彼の存在に救われている場面が結構ある)
くまさんと蟻さんの話とか,他にも魅力的なシーンも色々あったので,脚本販売したらちょっと売れるかも(←え,そこ)。

テーマが重くて,捉えようによってはひどく社会的なのにも関わらず,軽妙な掛け合いのおかげで,観客が
スッと劇の世界に入れてしまうということに感心したし,ずるいと思ったし,
開場に間に合わせるために職場から猛ダッシュしてよかったし,
この劇を100分でまとめるあたりにも,感心したし,ずるいと思った。(私は何を悔しがってみているのだろう)

劇を観た後に,大学時代に劇をしていた友達とご飯を食べて感想を言い合って,なんか最近の悩みと絡めてお話して
そんな時間が持てて幸せだった。