2016年9月12日月曜日

観劇 -- 午前3時59分(立ツ鳥会議)

先日で大阪公演が終わったということで,久々に劇の感想を1席(一年ぶり!)
すまぬ,今回は手放しでは褒められないだろう。

好きな歌手が新曲をリリースした,が,私はあまり好きな曲じゃない。
でも,今後も定期的に曲を出して欲しい,そんな感じ。

今回の観劇で先立つモノは違和感だった。
まず,登場人物の心理は,歳とともに経てきた妥協や矛盾を抱えているのにも関わらず
受験生,浪人生,就職浪人生など,若いということだ。
若い設定なのにも関わらず,見た目が若くない(老けてるとかお腹でてるとか)ということに違和感を感じてしまい,
こういう違和感を最初に感じると,それに引っ張られて,
劇の内容を頭に入れることをしにくくなるという
困ったことが起こる。
こいつは,趣味の問題かもしれないし,人によって違いがあることなのだろう。
(アリス・イン・ワンダーランド2を観た時にも同じようなことが起こった,
アリスがもう少しだけ可愛かったら,集中できるんだけど,てきな。←身も蓋もない)
あと,時代背景とか舞台背景に矛盾が大きいと,それに引っ張られる。
(今回はそんなことは無かったけど,よくテレビドラマでは遭遇する。いくらなんでも,そりゃ無いぜ的な。
そういう意味でもシン・ゴジラは素晴らしかった。)

というわけで,以下断片のような感想である。

中身の解釈は難しかった。
途中まで,人の悪意やスレ違いというものが,色濃く描かれていて
当初あまりにも,桜子ちゃん(鶴たけ子さん)が不憫で,そこまで救いようがないと辛いなと思っていた。
ただ,こういう悪意やスレ違いというのは,多かれ少なかれ日常生活であって,普段は
感じたとしても無視したり,触れないものだから,
それを浮き立たせるということ自体が意義だとすると,それには成功していたのだと思う。
それにしても,あそこまで不憫な桜子ちゃんが,そんなに素直な感じに育つとは思えなくて
彼女の抱えるであろう闇からあの無邪気さが生まれることへの違和感もあった。

バスターミナルの登場人物はなかなかにむき出しで魅力的でよかった。
誰一人あんまりまともじゃないというのがなかなか良かった。
ダルくて軽い雰囲気なのに,エグいことをさらりとしてしまうという気さくさと
桜子ちゃんへの過去へのリンクは,現実と記憶との橋渡しのようで,興味深かった。
そうか,最初に電話になかなか出ないという行為自体が,外界との遮断を自ら行っているという
表現だったのかもしれない。

人はそもそも孤独で理解し合えないというところから,
理解の土壌が合わないもの同士は理解し合えないというところから
理解をしようとしても良いのではないのかという救いのある場面が印象的だった。

ラストにほど近い,銀河鉄道のようなバスのシーンは良かった。
人が生まれ落ちる前かのような,不思議な感覚。
軽快なセリフ回しの愉しさとここで逢えたことに安心を覚える。

電話にでる桜子ちゃんが,それぞれの登場人物との大事な人との会話を
大事な人になりきって応対していくシーンで,一気に光に近づいていく感覚はあった。

その前の他の回想シーンでは,少ない登場人物が,桜子ちゃんの過去の関わりのある人物になり,
演じるというシーンがあり,そこでは,救いようのないような辛い記憶だから,
彼女が別の人を演じるということで,他の人を救っていくような言葉をかけていくこと自体が
光なのかもしれないと,ふと思った。

劇中で3時59分で,眠っている人より起きている人が多くなるという解説がある。それに対して,
ある種の救いを書いているような気もした。

以下,個人的な趣味,私は,向井さん(石原夏実さん)が桜子ちゃんが飼っているオウムになりきって,羽を広げて
話しかけるシーンが大好きだった。独特な発声と,オウムの桜子ちゃんへのただ寄り添う幸せを願っている視線と動き。普段から身体を動かすことをしている人のしなやかな,動きと相まって,大分心動かされてしまった。

たぶん,植松氏が,パンフレットに書かれていたとおり,
社会人の生活を営みながら作品を創るということは,無理めだったんだと思う。
本来,彼が考えていることをねり切れずに,〆切があったから,昇華させざるを得なかった,
そんな感じ。恐らく,私は彼が伝えたかったであろうことの尻尾も掴めていないのだろうと思う。
ひどく丁寧な心の内面の揺れ動きと,それがようやく表に出せた一歩自体が,
悩ましい社会生活を送る我々への励ましだったのかもしれない。
そもそも,私は,ここに救いという言葉を多用したが,残念ながら,ちょっと思いよがりの解釈なのである。

それでも,伝えるということを続けている彼らに敬意を評したいし,
まずは,ゆっくり休んで英気を養って欲しい。


おつかれさま(はあと)!