2014年12月11日木曜日

犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日 を読んで

犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日
1999/6
柳田邦男
祖父母が亡くなり,叔母が生死の境を彷徨ってからというもの
死について真摯に考えることが増えました。そして,姪が産まれてから
生について考えることが増えました。
どんなに頑張っても人の命には限りがある。ならば,未来の子孫のために
私には何が出来るのかということ考え,自らに落としこんで考えるならば
劣化しない価値あるデータを,生み出すことであろうと,暫定的な解を導いていました。
それを成し遂げるまでには,自分は死ねないし,まだ取り組み始めに過ぎないとも思っています。

今回「犠牲 わが息子・脳死の11日」を読んで,考えることがありました。
自死をした洋次郎さんは,長らく精神を病んでいた。
精神を病む人は,周りの人にも結構多くいて(研究をする人は心を病む人も多い)それは何故かということを考えた時に,視野が狭くなっているからではないかと思っていました。特定の物差しで測られる世界に囚われ過ぎているから,精神を病む可能性が高いのではないのかと。彼らのことを気にしつつも,彼らの傷と隣り合うと自分の精神も引き込まれてしまうことへの恐れがあり,なかなか触れることが出来ないといったこともありました。ずっと気になってはいるんです。ふとした時に,彼らのことを強く思い出すのです。そして,彼らの発した一言一言を思い出し,それはある面では真実であったということも同時に思い出すのです。しかし,それが自分も含めた大多数においては筋ではない,という論理から,それを弾き飛ばしてしまう,
悪く言えば排除してしまうことに微かな違和感も覚えていました。

それに対して,自分には何が出来るかを再考した時に,未だに答えは出ないのですが,1つ思うことには,心を病みがちな友人のことであり,彼女は卓越した表現者であったということでした。大学時代に行っていた演劇で,人の心の深層まで沁み入って表現をする必要があるシーンがありました。私は深層まで触れこむことがとても怖くて,客観的にしか役に対峙できなかった。しかし,彼女は自分自身の心の深層を切り拓いて,役を自分自身に取り込んでいった。その演技は,観客への大きな共鳴を産んだ。

亡くなった洋次郎さんは,そういった性質を持つ人だったように感じました。人より感じてしまう,考えてしまう。文学に対して深い洞察を行うことが出来,自分自身にも取り込んでしまう。ある種卓越した才能を持つ人には違いなかった。しかし,それを外部の人と共有し発信することに対しても,強い恐怖心を抱いており,書くことで書き続けることで光を求めようと試みたが,結局死を選んでしまった。

この本の後半のすごさは,そうして亡くなった洋次郎さんが一時的な心肺の蘇生,脳死状態への移行から死に至った経緯に対して,邦男さんは圧倒的な喪失感と悲しみから,この私的な体験をなんとか公的な制度に反映させるために奔走したという点にあると思います。書くことで、動くことで、息子の追悼と再生を試みたということです。

邦男さんは、家族が二人称としての死を体験した時に、それを受容するには時間と物語が必要であったということから脳死について以下の様な提案をしています。

以下引用
(1)人はだんだんと死んでいくものだという自然の摂理を基本に置き、日本人の従来の死の概念を壊さないようにする。
つまり、一般的には心停止を持って死とするか、死の「前段階」である脳死の段階で死を受け入れるという人は、脳死での死亡を認められ、従って臓器提供が出来る。
(2)どの段階での死を選択するかは、あくまでも本人の生前の意志による、生前の意志の確認は、原則として自筆の文書(日記などを含む)によるが、
文書がない場合は、本人の意見を裏づける二人以上の信頼しうる証言を必要とする。家族の意思ではなく、あくまでも本人の意思を推定するに足る証言である。
とくに脳死を死とする場合は、本人の意思だけでなく、近親者の同意も必要である。
引用終わり

東洋的なファジーな思想を法律に組み込むべきだという大胆な提案です。
結局、脳死は人の死とされ、ばっさりと切る法律になってしまいました。家族の同意を取り付けられれば、医療者は臓器を移植できることになってしまいました。
しかしながら、このような問題提起と、行動(講演会や文筆活動)を起こされたことは、かなり重要で、意味のあることだと思います。そしてその重さを感じます。
自分自身を振り返ってみても、自分の身に起こった出来事に対して、批判したり、ひどく落ち込むだけではなく、現状を変えるための具体的な行動に出る、ということは、非常に重要な事だと感じています。

そして、この本によって、死生観というものが少し、変わりました。心を病む方への見方が変わりました。早かれ遅かれ人はいずれ死ぬ。そうした時の命の尊さは死にゆく者と今生きているものとでどれほど違うものなのか。生き続けることの意味、人称による死の意味の違いについても、深く考えさせられました。

今を生きる私達に、何が出来るのだろうか。何をすべきだろうか。どう生きるべきだろうか。どう向き合うべきなのだろうか。
今も考え続けています。

(後半が推敲不足なので、もう少し修正するかもしれません。)

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