2010年12月13日月曜日

勝手に美人論

"常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う"
"Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. "
~アインシュタイン~

最近この名言はよく出来ていると思う。
私は美人、イケメン、アンチエイジングというものに対してアンチテーゼを示したい。
それは、どんなにインテリな人間でも、イケメンに弱かったりする現実に対してのアンチテーゼでもあり、
自分に対しての戒めでもある。つまり、私はイケメンがすきだからだ。

美しいという言葉は色々な意味を包括した言葉である。
人を形容するときも、自然を形容するときも、現象を形容するときも使える便利な言葉だ。
数学者だったら美しい数式というように使ったりもする。所詮言葉は感情を入れる入れ物に過ぎず、
その大きさは人によっても異なる、と感じる。

美しいというのは、個々の観点から美しいと感じる物であり、それらは偏見のかたまりだと思うのだ。
ただ、美人やイケメン(ハンサム)<←面倒なので以下美人にまとめる>といったものは、多くの人に共有される偏見ゆえ、一般的にそうである、と思い込んでいるに過ぎないとだと思う。それがあたかも常識のようにふるまっている。だから、時代や国によって、美人の定義などころころと変わり、昔の美人の写真や絵をみてこれのどこが美人?と思ったりするのである。

ともかく、美人など偏見の作り出したコレクションに過ぎず、そのコレクションの中に自分が当てはまらないからといって、別段落ち込むことは無いのである。その美人という偏見のコレクションに踊らされて、そのコレクションの中に入ろうと整形や、エステに、何十万、何百万もかけるというのはナンセンスであると私は思う。

しかしながら、経験上、美人は得をする。私の姉はずっと美人で、彼女は美人であるからにして、得をしていたところが多分にあった。私は中途半端に整っている程度なので姉と共にいつか美人と言われる日が来ることを願っていた。私は高校を卒業して、少し痩せて、多少の化粧をして、その一般的な美人の範疇に多少なりとも入ったら、周りの扱いが変わったというのは間違いなく事実である。人の反応が違うのである。美人は便利で得なのは間違いない。これは両親に感謝すべきことなのかもしれないと思ったりもする。

今度は、スタイルについて考えてみよう。私は御世辞にもスタイルは良くない。
上半身と下半身のバランスが悪く、色々なところに肉がついていて、最近の美しい肉体とは程とおい。
最近は、細く長くメリハリがある身体というのが”スタイルが良い”ということの定義になっているように
思う。ただ、これも偏見のコレクションだ。しかもあまり実用的ですら無い。
それでも、私はこのコレクションに踊らされて、もっと美しい肉体に一度はなってみたいと思ってしまうのである。

お年寄りと話していて思ったことは、彼らはあまり、美人やイケメンを気にしていなくて、それよりも健康やその人の状況、良い顔かどうかを気にされていたりする。
見た目を重視できる年齢というのは、元気なときだけかもしれない。

結局、何が重要なのか、ということを考えると、自分が生きて行く上で、相手に良い印象を与えたいから
見た目というのは重視されるのである。その見た目が良い、の定義が偏見のコレクションになっていて、しかもメディアの発達でそのコレクションが偏っているものを当たり前に信じているということが問題なのである。しかもそれは、ある種の権力を持つ人によっても操作出来てしまうということが怖いことなのである。

人にとって重要なことは、おそらく、長く人が生き続けることであろうと思う。そのためには人の存続に優位な人の子孫を作っていくことだと思う。愛の定義はまた、色々あってそこでも議論が進んでしまいそうだけど(同性愛も愛だし)、とりあえず、その子孫を残すためには、自分の好みにあう人を基本的には1人
(以上?)見つけて2人以上の子どもを産むことなのだろう。要は、自分にとっての美人やイケメンを探せばいいだけなのだ。そのために、そのコレクションに入ることが必要だと思ったら、そのための努力をすればいいし、必要ないと思ったら、他の努力をすれば良いと思うのだ。

また、スタイルにおいても、健康につながる実用的なスタイルであることが大事だと思う。太り過ぎでも痩せ過ぎでもそのコレクションに入らないことはある種健全なことで、そのコレクションが健康なスタイルと重複することが人の存続にとっても良いことだと思う。
しかし、長生きすることが人という種の存続にとって良いことかどうかはまた、別の問題かもしれない。

今日は勝手に美人論を展開してみました。

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