2010年11月17日水曜日

観劇日記 劇工舎プリズム「Δ」

後輩の劇を観てきた。
作演の彼は私の勧誘がきっかけでサークルに入ったなんて言ってくれるものだから
行かないわけにはいかなかったのである。後輩メイツからの連絡をいただいたなら、いかないわけにはいかなかったのである。後輩大好きな残念な先輩としても・・・。

思い出そう。

Δ、微分のおはなしだと思った。
曲線を微分すると線になり、線でさえも微分すると点になってしまう。
我々の世界は微分で出来た一部しか見ていない。本当に分かっていることなんて
ちょっとだけだ、ということなんだというテーマだと感じた。

冒頭と最後のカチューシャは、その曲線を出して、しまう、という動作に、すべてが集約されて
いたと考えるので良いのだろうか。
それを表現する仕組みを皆でつくろうとして、でもそれが出来ないと分かったときにはものすごい
混乱をもたらす。その危険性を我々は感じているだろうか、いや、ないだろう、と。

まぁ、理解しきれていない部分はあると思うけれど。
この微分と作演の考えが、私の考えた結果とあっていたならば、
非常に骨太で、芯の通った作品だと思った。
芯が太いから、ぶれずに済んでいるのだ。

惜しいのは、プリズムだからこその会話感の不足で
最近マーキュリーが得意としている
さりげない日常の会話につい人は引きこまれてしまうという事実に
プリズムの人たちは気づいていなくて、冒頭の会話の不自然で観客を
いくらか突き放してしまったであろうことが少々残念である。

ここに、先輩としての些かの反省があって、私はその事実に現役時代全く気がついて
いなかったのである。だから、勝手に責任を感じて唸ってしまったりする。
演劇のサークルが続いていくには、発展していって欲しいという思いがあって、この発展には2つ、サークルとして人と人が繋がり合う発展と、劇を作るという行為において発展していって欲しいという
思いである。

自分自身の反省として、前者においても後者においても、先輩方に比べて自分は多くのものを受け取ったのに少ないものしか伝えられなかったのではないか、という反省があるのだ。
後輩が作った劇に粗が目立ったりすると余計その思いが強くなって、もう引退して何年も経つのだから
いい加減にしろ、と自分でも思うのだが、そう思わずにはいられない瞬間というのもあるのである。でも当時はいっぱいいっぱいで、最善を尽くしているつもりだった。大した役者じゃなかったけど。

だから今回、役者の演技という面では粗が目立つにしろ、(悪かったわけではない、荒削りだっただけ)
写真や個々人の感想を見る限り、前者においても後者においてもそれは克服されつつある、と感じて
勝手にホッとしていたのである。この大変頭脳を使う、数学的且つ哲学的な劇を理解して協力しあえたのは頭脳派集団プリズムだからこその特技ではないか、それはうまいことやったなと。
ただ次回はメンバーも演出も変わるだろうから、次への危険性も大きいぞと老婆心ながらに心配していたりする。脚本に救われた部分が多々ある。削って鋭さを出し切っただけに、次下手に肉付けすると
残念なものになる可能性がある。
役者は時間の許す限り、他の団体に参加したり、観たりして、引き出しと武器を増やし、スタッフもスタッフ目線ではなく、作り手として劇に関わる強い視点を持っていてほしい。

実に独り言になってしまった。ただのおばあちゃんの独り言である。
もう、大学も卒業しちゃったから口出しを直接はすまい、と思っているからなんです。

でも、たまには、劇場に出向いて考えないと、ですね。

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